時には真面目に

 
 ちらと読み直した「不可触民/山際素男」での一文。
 正直この本はこれ以上ないくらい読む意義がある本だと言えるが、女としては泣きそうになるくらいツライ。
 が、性のことが書かれていたので抜粋。
 
 「性は常に人間の根元的存在の核であり、それゆえ深奥のものへ結びつく。神とすらも、ね。だからこそ禁欲主義というものが逆説的活動力になってゆくのだと思います。そして人は性的和合、抑制のどちらかを選ぶかであり(中略)聖者は後者を選んだに過ぎない」
 
 創作ではなくリアルでこの考えを踏んで話すと、性を何処かで嫌悪したり、矮小化したりしている人には大きく捉え過ぎている向き、と感じるかもしれない。
 事実、この聖者は男を規定していて、女だと性欲の量も違うので一概には言えないし、「性的唯幻論序説/岸田秀」のように、そもそも本能の壊れた人間にとって性行為は趣味としての活動、として総括する方が、私も好きだ。
 
 でも現実で満たされているか・いないか、お互いの性のあり方を受け入れているパートナーがいるか・いないか、では、やはり人生の幅が違う気は、する。(当たり前だけどパートナーと言っても結婚相手とか男女に限りません。性を楽しむ何がしかの好意的関係にある相手)
 
 性=性別でもあるので、女性の場合自分の性そのもの、女の部分を美しく価値がある、と思っていないと、性そのものも楽しめないんじゃないかなと思うのだが。
 女の女嫌いって結構多いけれど、やはり女に生まれた以上は、「この性の持ち主って素晴らしい」と思って生きる方が有意義に決まっている。
 私が女尊男卑だからかも知れないけど、そういう意味ではなく、純粋に自分を見つめたときの感覚としても。
 
 書けてはいないけれど、そういう「性」の面を膨らまして書いてゆきたい。
 私の中で、清廉で、美しくて、性を受け入れていて、でもオトコには一筋縄ではいかない人格のちゃんとした女性を書きたい。少し奔放で、意志の強い小悪魔な女性もイイ。
 この逆説的活動力、というの、凄く分かる。
 私もリアルじゃしたくもないのに禁欲してるんだから発揮したいよ。