今日、いつも感想を下さる方と話していて(前述の手紙の君とは違う)、四作品目である「現代インド女性」の話が、「別にコレはコレで良いのだが、他の前三作品にあった、男性的な官能っぽさが無かった」とのお言葉を頂いた。
 それは、自分でも感じていた。
 この話は前の日記で書いたように、ちょいメリハリに欠けているが、それ以上に前三作品との決定的な違いがある。
 それはインドの話が、まごうかたなき、恋人の話であるということ・・・・。
 
 私の中で、官能における愛人と恋人の違いは、不倫・他に恋人がいる相手・公に紹介できない相手・といった範疇にとどまらない。
 恋人とは、自分の属するコミュニティに紹介し、迎え入れようとする相手を指す。愛人とは、自分のコミュニティに紹介できず、迎え入れる努力のできない相手。
 コミュニティとは、おおよそ公的な生活圏・仕事場・家庭内のこと。
 相思相愛であろうと、お互いに独身の大人同士の恋であろうと、同棲していようと、もしくは他の人間に付き合いがばれていようと、上記の条件を満たしていなければそれは恋人でなく愛人に過ぎない。
 前三作品で、男は女をとても愛しているけれど、身分差・肌の色の違い・自身の矜持になどによって、女をコミュニティに受け入れることを初めから諦めていたり、迷ったりしている。彼らは相愛で独身同士でありながらも、愛人にとどまる。
 よって、そういった彼らの関係は意図せずして、全体的に何処と無く淫靡で切実さを帯びるらしい。
 
 でも、恋人としてお互いのコミュニティにお互いを紹介し、招き入れた二人の関係(この場合、この条件を満たせるなら三人or四人orもっとの関係でも同じ)は、その時点で、例えコミュニティに認めてもらえなかったとしても、淫靡さはと跡形も無く消え去り、すべての苦難も幸福も甘い甘い二人の世界の一部になる。
 良くも悪くもハーレクインな世界。
 
 今まで読んだ小説で、この「コミュニティに紹介する」という行為の有無が、二人の関係に大きな影響を及ぼすことを表現したのはグレン・サガンの「僕の美しい人だから」だったと思う。
 
 個人的に、落ち合う愛人同士で、愛しているのに紹介できないことで懊悩する殿方を書くのは楽しいけど、恋人になったにも拘らず手に入らず煩悶する関係を書くのは、もっと好きだったりするんだよね(笑)ある意味、四作品目はそれを重点を置きたくて失敗したお話。